夏の夜の話



風呂のあとの風は生ぬるくてもどこか涼しさを感じる。
月は高く、俺の影を鮮明に見せる。照らされた板に出来るそれ。軋む音。
丑の二刻は過ぎているだろうか。虫の声がよく通る。
どの学年ももう夢の中だろう。あの野郎(鍛錬バカ)を除いて。
俺が帰ると言っても「まだ足りん!」などとほざいて、頭の苦無を光らせてどこかへ消えやがった。もう俺の知ったことではない。朝まで匍匐前進でもしておけ。

部屋が近づく。廊下も忍び足で、障子も最低限しか開けずに頑張ってみたが。

「おかえり」

「あ、悪い、起こしたか」

さっきまでの行動が急に恥ずかしくなる。
首に掛けた手ぬぐいを無意識に取っていた。

「夜の自主トレもほどほどにしないと。夜でも暑いことは暑いんだからね。二人一緒にぶっ倒れたって診る僕は一人しかいないんだから、まったく…おにぎりの時だってさ…云々」

二人・・・?ああ、アイツもいたこと気付いてたのか。
小言に適当に返事をしながら手ぬぐいを再び首に掛ける。
つられて曲げた左腕に痛みが走る。そうだ忘れてた。

「なぁ伊作、塗り薬あるか?」

「なに、切ったの?どこ」

「まあ大したことはないんだが」

「ちょっと見せて。僕が診る」

やや強引に引っ張られる。
本当に大したものではなかった。
木の枝のせいだろうか、気付けば切れていた程度の擦り傷だった。多分。血は垂れていたが。

「別にこれくらい自分で」

「いいから!」

「あ、ああ・・・」

伊作が言葉で遮るなんて珍しい。
怒ってる・・・のか?
ここは素直に従っておいたほうがよさそうだ。
蟋蟀の声が部屋中を満たしつつある。


沈黙のまま、伊作の手だけがするすると動く。行灯がそれをうっすら壁に映す。
保健委員を6年間もやっていれば当たり前だろうが、本当に手際がいい。
気付けば見蕩れて、次にくるだろう動作を目で追っている。
時折、風呂で慣れたと思った痛みが薬のせいでよみがえる。

「…悪いな、伊作」

「え?」

「いや、だから、その、」

こんな真夜中に起こされて、しかも怪我の治療をさせられて(ん?治療は伊作からするって言ったんだっけ?・・まあいいか、どっちでも)、不機嫌になるのも無理はないよな、っていう。

「・・・何が悪いかホントに分かってるのかな」

息のような声が聞こえた。
かな、と言ったか?

「何か今・・?」

「ううん、なんでもない。はい、おわり!」

包帯は結構傷深かったから一応ね、と言われ、初めて自分の手に包帯が巻かれていることに気付いた。
それほど、動作に見入っていた。ほんのり浮かび上がる白い布。

「あ、寝る前に塩を一つまみ舐めてから寝るんだよ?水も飲んで。燭台も消し忘れないように」

「ああ、分かった」

伊作は「おやすみ〜」と欠伸をしながら布団の中へと戻っていった。
何だか呆気に取られてしまって、口の中でおやすみと返した。

再び包帯に目を遣る。
蟋蟀たちは、まだ眠る気配はない。

授業の支度をしてから寝ようと机のほうを見ると、
当然のように用意されていた薬包紙と湯飲み茶碗を見つけ、
俺はすぐさま振り返ったが、灯りに照らされる布団からはもう寝息が聞こえるだけだった。