何も知らない



カチャリ。
忍刀を鞘に収める。束にまで飛び散ってしまった血は、目の前に横たわるどこかの城の忍者のものだ。 もう一人居た仲間は谷底へ蹴り落とした。急所を突いたし、ましてこの深さ。生存している可能性は無いに等しい。追手を呼ばれなければそれでいいのだ。
その忍者が最期の足掻きで投げた棒手裏剣を見遣る。力が足りず、狙いよりも手前で失速してしまったのだろう、地面に情けなくも突き立っている。その止めを刺した相方に呼ばれ、もう動くことのない忍装束を尻目にその場から去った。あるはずのない視線を感じるも、振り返りはしない。下手すると付け込まれてしまう。

暫く進んだところの小さな滝で、刀に付いてしまった血を洗い流す。その次に手、顔。
泥でしか汚れていない相方をうらめしそうに横目で見つめると、正面へ向き直り、大きく息を吸い込む。

「あーあ、忍者は返り血なんか浴びてたら駄目なんだよなー」

愚痴を零すと、留三郎は力なく笑い、付け足すように言う。

「まーあの体勢からだったら浴びても仕方ない気はするが」

ああしなければ、確実に伊作が切り捨てられていた。
自分で考えておきながら、留三郎は少し背筋が寒くなった。

近くの岩に二人して背を預ける。足もそれぞれ楽に伸ばしたり、折り曲げたり。地面に迎え入れてくれる温度はなかった。
ふと空を見上げると、余すところなく敷き詰められた灰色の雲に視界を支配される。そう言えばこんな忍務の後はいつも曇だなと、留三郎は口を閉じたまま鼻で深く息をつく。すると追うように隣から聞こえる溜息。

「ふぅ。やっぱり臭うな」

見えない血の残る両手を見つめながら、伊作はそのまま淡々とした口調で続けた。

「不思議なんだよね。昨日人を助けた手で、今日は人の命を奪ってる。どっちかに絞ることが出来たら、楽なのかなーとか、たまに思うよ」

「そんなの無理だけど」と、おどけた表情で宙を見つめる。しかし口は笑っていても、目は明らかに違う感情を訴えていた。哀しいとはこのことか。

―俺が守ってやる、俺が側に居て…

咄嗟に浮かんでくる自分の安易な考えに反吐が出そうになる。
伊作のことを想っているつもりで、結局は己のことしか考えていないのだ。
返り血なんて浴びさせたくない、と思っているのも、実は自分がそれを見たくないだけなんじゃないか、…とか。
いつも誰かが耳打ちする。“側に居たいのはどっちだ?”、と。
“お前が居て、伊作の何が変わる? 鬱積していく遣る瀬無い感情を拭い去ってやることがお前にできるのか―…?”

「…っ」

衝動のまま、隣に座る細い肩に手を伸ばしていた。

「? …留?」

抱くという行為に甘えてただ縋っているだけの自分が嫌になる。

「悪い、少しだけ…こうさせてくれ」

何も言わず抱きしめ返してくれるこの優しさが、愛おしく、辛い。
どれだけ抱えさせれば気が済むのか。
何もしてやれない虚無感に押し潰されそうになり、抱き込む腕に力が入る。

俺はこいつのことを、何も知らない。