鍛錬あるのみ!
ここ一カ月程ずっと週六日のペースで鍛錬に出掛けていたところ、ついに伊作から夜間鍛錬禁止令が下されてしまった。伊作曰く、「せめてこの三日間はちゃんと寝る!その隈は尋常じゃないし、このまま続けたところで体力も筋力もつかない!逆に落ちるよ!」とのこと。
以前も同じようなことがあり、その時俺は忠告を全く気にも留めず鍛錬を続けたのだが、その翌日、伊作特製活力汁を飲まされ、丸二日臥床する事態となったのだ。
…あの悪夢のことを考えると、無視を決め込むことは自殺行為に等しい。近々筆記の試験もあるし、勉学に励むいい機会だと、今回は泣く泣く受け入れることにした。
正子を過ぎた頃。
文字の羅列を見るのにも飽き、早い気はしたのだが、この際存分に寝てみようと、布団を敷き何をするわけでもなくだらだらと寝転がっていた。
すると唐突に障子が開き、蒼白の顔に白い寝衣、白い手拭を首に掛けた同居人が現れた。
「…なんだ、今日は居るのか」
一瞬驚いた顔を見せ、すぐにいつもの意地の悪そうな面に変わる。
「居たら悪いか」
すると、「ふん」というどちらとも取れない返答をしてきたが、気にせず言葉を続けた。
「伊作に鍛錬禁止令を出されてな。困ったもんだ」
「ふっ。まぁ、お前は前科持ちだからな。下手に逆らわない方がいいだろう」
「だよな…」
そう話しながら、仙蔵は文机の前に落ち着いた。それを見てふと思い出す。
「そうだ仙蔵、昨日の兵法の授業の板書見せてくれないか」
「ああ、別に構わんが」
丁寧に書かれた仙蔵の帳面の横に自分のそれを開く。先ほど自分で見ても驚いたのだが、おそらく睡魔に襲われ意識が飛んでいたのだろう、ある部分だけ極端に文字が破綻しており、自分でも解読不能な記述がそこには繰り広げられていた。早い話、居眠りをしていたのだ。
こんな失態を目の当たりにしてしまうと、やはり睡眠は取るべきものなのだと些か痛感させられる。
「何だその字は。お前のとこの一年といい勝負だな。…まぁいい。この部分は…」
こいつの嫌味にはもう慣れている。
一寸離れて腰を下ろしていたので、説明を聞こうと少し身を乗り出すと、何やら良い匂いが鼻を掠める。これは…香油、だろうか?おそらくこの匂いを発している奴の頭に目を遣る。
僅かに水分の残る髪。なめらかで艶のある漆黒。
その主の説明する声は耳から耳へとすり抜け、だんだんと遠のいていく。
横目ではなく、いつしか身体ごとそちらを向き、瞬きも忘れ見入っていた。
「………」
触れられずにはいられなかった。
そっと手を伸ばし、それを掌に収めると、変な充足感で心が満ちた。
違和感に気付いたのか、無造作にこちらを振り返る仙蔵。怪訝そうな表情で、自分の髪が乗っている俺の手、そして顔へと視線を移す。
さすがに手は髪から離した。が、「すまん」などと言って場を収めればよかったのに、今日の俺はどこかおかしかった。
「あ…、綺麗で、お前の髪…、つい…」
仙蔵もいつもの調子で揶揄や嫌味を飛ばしてくれればよかったのに。
「は…?なっ、何を…」
顔を背けると、横髪を耳に掛け、ほのかに赤く染まったそれと、同じく熱を帯びた右頬が露わになる。伏せられた長い睫毛。
柔らかな輪郭線と比較的小さな耳。それに掛かりきらなかった髪がサラッと音を立て肩に落ちる。
「…!」
ギクリ、と身体の芯に閃光のようなものが走った。思わず息を呑む。目が離せない。
髪から離した手がもう一度動く。それは俺の意思を完全に無視していた。むしろ、俺の意思はもはや他の何かに支配されているようだった。
その動作に再び目を見開く仙蔵。刹那、瞳の中に映った動揺が俺の手を止めた。
少し怯えているようにも見えた。
「ッ……寝る!」
即座に立ち上がり、元居た布団の中へと素早く潜り込む。
「な…、お前、この帳面…」
「机に置いといてくれ!」
「あ?ああ…」
待て待て待て!さっき俺は何をしようとした?手を伸ばしてどうするつもりだった?
自分の中に生まれてしまったあらぬ考えを、そして今確実に俺を凝視しているだろう仙蔵の視線を振り払うように布団をより深く被る。
しかし何を血迷ったんだ俺は。あの瞬間の衝動は何だったんだ。
鍛錬をしないだけでこんなにも精神が弱々しくなるとは。やはり鍛錬は必要だ…。
明日は意地でも伊作の目を盗んで外に出てやる!と決意した文次郎なのであった。
後日談
「仙蔵、昨晩は文次郎おとなしく寝てた?まー前回のこともあるし、大丈夫だとは思うけど」
「いや、それが…」
「それが?」
「あいつ、獣になりおった」
「え゛っ!?」
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