夜はお静かに
燭台の灯がゆらゆらと部屋中を揺らす真夜中。子の刻。
外では虫たちがそれぞれ勝手な音を奏で、時折それが途切れると、木々の微かなざわめきがその合間に滑り込み、外界は静けさの中にもどこか忙しい空気を漂わせていた。
一方、仕切られている障子の内側では、今日も二つの声だけがその空間に響いていた。
「まーた八んとこの虫が逃げ出したって。本っっっ当迷惑だよあいつ前科何犯だよ」
頭の後ろで手を組み布団に寝転がる三郎は、不快感を前面に押し出した声で不平を漏らした。文机の前で風呂上りの髪を乾かしていた僕は、それを背中で受け止め、「また八の話題ね」と内心笑いつつ、振り返って次の言葉を促す。
「ははっ。でも、毒虫じゃないだけましだよ」
八が部屋で飼っている虫や動物たちは、さすがに自身の安全のためなのだろう、毒など有害な性質を持たない生物のみである。しかし、あの部屋には何度か入ったのだが、鳴き声や蠢く音で独特の空気を醸し出しており、正直なところ、非常に遠慮したい場所である。あの血天井の倉庫のほうが幾分増しだと思ってしまうくらいに。相部屋の奴には本当に頭が下がる。
そういえば、一年は組にも蛞蝓を部屋で飼っている子がいるときり丸に聞いたことがある。思い出しただけなのに、その相部屋の子にも思わず同情してしまった。
「まぁ…。つーか最初っから逃がさなきゃ平和なんだよこの長屋は」
「それはそうだけど…。あ、もしかしたら、外で鳴いてる虫たち、全部八のだったりして」
先程から聴覚の一端をずっと支配しているこのたくさんの声。それを見るように、障子のほうへそろりと顔を向けると、三郎もつられるように横たえた頭をそちらへ捻った。外の音が一段と大きく聞こえる。
「……有り得るから困るよな。もしそうだったら殴り込みに行くところだけど、あの部屋には入りたくないから、また困る」
「うん、確かに。あの部屋は苦手だよ」
三郎も自分と同じ考えなのだと安心し、八には失礼だと思いつつも、頭を大きく縦に振り、激しく同意してしまった。
「あっ、でも兵助はあの部屋平気って言ってたな、そういえば」
「ええええ」
「いつだか図書室に居るときに会ってさ。虫にもそれぞれ個性があるらしいよ。よく見てると分かるって」
「よく見たくないんだってのこっちは。あいつもついに八に洗脳されたか」
「ははっ、兵助が聞き上手なだけだよ」
「とりあえず『ああ』って言ってるだけだろ」
「あれはただの口癖だって」
そう言うと、三郎は少し間を置き、くぐもった声で少々ばつが悪そうに唸った。
「…なんかさ、雷蔵って、兵助の話ばかりするよな」
「え、そうかな―」
シャッ スパンッ
「おー失礼ー。虫たちの捕獲は完了した。もう安心だ」
「八、開けてから断っても意味ないぞ」
勢いよく開け放たれた障子の向こうには、まさに今話題の主役である八と兵助が立っていた。八は騒動の収拾がつくと、付近の部屋には必ずその旨を伝えに来る。しかし、毎回何の前触れもなく入ってくるので、気を張っていないときには思わずビクッとしてしまう。
「その台詞何回目だよ。管理くらいちゃんとしろコノヤロー」
「分かってっけど、虫たちにも意思ってもんがあんだよ。それに毎回ちゃんと全員捕まえてるだろ」
「未然に防げって言ってんだよ。つか呼び方おかしいだろ。ったくよー、虫なんか外に置いとけばいいだろーが」
「てめっ!あいつらはか弱くて繊細そのものなんだよ!無神経で図太いお前なんかとは違ってなぁ!」
「んのヤロ今何つったコラァ!」
いつもの口喧嘩にため息を吐いていると、同じく呆れた顔でその光景を見つめているもう一人の奴に声を掛けた。
「今日は兵助も一緒なの?珍しいね」
「ああ、八に火薬の成分について教えて欲しいって言われて部屋に居たら、この騒動に巻き込まれてさ、」
そういえば、こないだろ組で火薬を扱う授業があった。復習か、分からないところがあったのか、火薬委員である兵助に確認しようと思ったのだろう。八のこういう熱心さには感心する。
「気付いたら捕獲に付き合わされてた」
「ははっ、ご苦労さま」
「夕飯の豆腐譲ってくれたし、これはやらないと、と思って」
「ああ、豆腐ね…」
思わず苦笑するも、兵助はいたって真面目な顔である。律儀な男なのだ。
「―あーくそっ!もう寝る!こんな言い合いに時間割いてらんねぇよ、馬鹿馬鹿しい」
「こっちの台詞だ。さっさと出てけ」
「あれ、もう仲直りしたの?」
「「違う!」」
「ふーん」
悪意のない野次(おそらく。)を飛ばし、二人の視線を同時に浴びるも、兵助は無頓着な態度でそれをサラッと受け流した。
「じゃあそろそろ戻るぞ、八。阿呆な騒動にも無駄な喧嘩にも邪魔されちまって、火薬のこと全然教えれてないだろ?すーごく面倒だけど、依頼料の分はきっちりやるから俺は。寝るなよ?」
「え、は、はい…」
抉るような大きな目で刺々しい言葉を連ねる兵助に圧され、八はどんどん小さくなり、仕舞いには後ろ襟を掴まれていた。
「依頼料?」
その合間をみて、三郎がそっと耳打ちをする。
「夕飯に豆腐貰ったんだって」
「ああ…ふぅん…」
それぞれ呆れ顔で、こちらに背を向けている飼い主とその犬を見遣った。非常に滑稽だが、もう突っ込む気になれない。
「じゃあ、また明日なー」
「おー」
「…おや、すみ…」
「う、うん、おやすみー」
シャッ …パタン
「「……」」
嵐の後の静けさとはこのことを言うのだろうか。
ドッと疲れが押し寄せたのだろう、口喧嘩のせいで上体を起こしていた三郎は、深いため息とともに再び白い布団へとその身を収めた。同時に大きな欠伸。僕もそれにつられると、手拭を小屏風に掛け、自分の布団に座り込んだ。
「―で、さっきの話の続きだけど、」
掛け布団へ足を入れていると、三郎は天井を見つめたまま、声だけを僕に投げかけた。
「え? …ああ、僕が兵助の話ばかりするってやつ?」
無言のまま小さく頷く三郎。あんな騒動の後だったし、一瞬だがその話題は僕の頭からすっぽり抜けてしまっていた。再度持ち出してくるなんて、余程気になるのだろうか。
「この前の夕飯のときなんて、定食のAとBで迷ってたら、『兵助が来たら豆腐あげれるし』とか言って、Bのほう選んでただろ?」
「ああ、そういえばそんなことあったね」
あの日、単に僕はいつもの迷い癖でどっちを選ぶとも決めかねていたので、勝手に自分の中で理由を作り、特に意味はなくB定食を選んだだけだった。
でも、そんなことを言うなら。
「じゃあ、三郎も八の話ばっかするよね」
「はっ?」
そんなばかな、というふうに一度は否定したものの、表情を変えず見つめる僕にその自信が揺らいだのか、少し考え込むような動作をした後、おそるおそる口を開いた。
「…、…そう?」
「そうだよ。現に今日だって、八の話題振ってきたの三郎だろ?」
「………確かに」
「最初も思ったんだ。あ、また八の話してる、って」
「うあー…、なんか…、自分が嫌だ」
頭を抱えて唸る三郎に、本当に無意識だったのかと、少し面を食らったが、その様子がだんだん微笑ましいものに思えてきて、気付けば笑うのをひた堪えていた。
「…なんだよ」
「え、いやぁ、三郎、八が大好きなんだなと思って」
「はああ?そっ、それなら雷蔵だって兵助のこと、す、す…」
「ふふっ、じゃあ僕たち、あの二人が大好きってことだね」
「―…っ、ぶえっくしょん!」
「ん?なんだ八、風邪か…っくしゅん!」
「っあー、なんかもう阿呆らしくなってきた」
ふて腐れた顔でぶっきらぼうな声を上げると、また大きなため息を吐いた。
「なに、三郎が振ってきた話じゃないか」
「もーいーの。寝る」
気紛れな奴、と思いつつも、三郎の胸の内は先程から何となく察していた。それをわざと口に出してみる。
「ふーん。でも、僕は八にちょっと嫉妬したかな」
「え?」
「よく話に出るってことは、三郎がいつも八のこと考えてるからだろ?だから、ちょっとだけ嫉妬」
言うと、三郎は驚いたような顔を一瞬見せ、すぐにそっぽを向く。少し見える右頬には、幾分かの熱の色が伺える。
「…だったら、俺だって…、兵助が…その…、ちょっと、羨ましかったし…」
「―あ〜、もしかして三郎と雷蔵、俺たちのこと噂してたんじゃない?荒らすだけ荒らして
帰ったし(主にお前が)」
「…有り得るな。ったく、俺たちの話なんかせずに、二人でさっさと仲良く寝てりゃいいん
だっつの」
「「はっくしゅん!」」
一気に沈黙が流れ、やはりまだ鳴いている虫たちの声が耳に入ってきた。…二人のことを話題に出しすぎたのだろうか。
「…寝よ」
「…うん」
燭台に息を吹きかけ、室内は外界と同化する。微かな月明かりで障子の紙の部分だけが浮かび上がる。そしてやっぱり響く虫たちの勝手な声。
隣の布団から伸びてきた手は僕の手を掴む。
「おやすみ、雷蔵」
その笑顔で、今日が終わる。明日が始まる。
「おやすみ、三郎」
ほんの些細な、僕らのこんな日常。
ゲストで書いた5年アホ話でした
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