そうしそうあい
それは今から少し前のこと。
風呂上がりで部屋に戻ろうとしていた兵助は、同じく自分と同じ格好で縁側に座り込む八左ヱ門を発見。いつものように軽く声を掛けたのだが、その反応は普段の八左ヱ門からはだいぶかけ離れた、素っ気ないものだった。
体の具合でも悪いのだろうかと顔を覗き込んでみても、こちらを一瞥したかと思えば、またすぐに目を逸らす。
いよいよ意味が分からず、しかしそのまま去ってしまうのは何か違うと思い、とりあえず少し距離を保って隣に腰かけたのだった。
それを再び横目で確認した八左ヱ門は、少しの間を置いて、声だけをこちらへ投げかけた。
「あのさ、今日、たまたま委員会中のお前を見かけたんだけどさ、」
「ああ」
「その…なんか、手ぇ握り合ってたろ…タカ丸さんと」
「は…?」
俺と、斉藤が、手を?
今日の委員会に記憶を巡らせる。そんなことあっただろうか。
握り合うなんて場面、無かっ…
「―っああ、あれか」
覚えのある場面が頭に浮かんだ。
しかし、あれは握り合っていたというより、斉藤の一方的なもので。
焔硝蔵の火薬壷を入れ替える際、配置の邪魔になるものを一旦外へ出したのだが、俺がすんなり持てる物に、斉藤は重い重いと弱音を上げたので、持つ位置のコツを教えてやった。
しかし、それでもぎこちなくしか持てないことに、斉藤は俺の手に秘訣があると考えたのか、おもむろに手のひらを取り上げ、自らの両手で包みこむと、まじまじと観察し始めたのだ。
ここの筋肉が厚いだとか、指の開く範囲が広いだとか、自分との相違点を次々に上げていく。
しかしいつまでもこんなことをしていては仕事が終わらないと思い、「慣れだよ」と一蹴し手を離すと、斉藤は眉尻を下げ「そうだよね」と笑い、俺の持ち方を何度も真似して繰り返すのだった。
確かに、あいつの「距離」は他人のそれよりも近い気はする。しかし、それは物事をいち早く吸収しようとしての行為だと承知しているし、あいつのある意味の長所であるとも思っている。
八左ヱ門はそれをたまたま見かけ、不快に感じたらしい。
そんなことを思われても、俺には斉藤を拒める理由は一つも無いというのに。
「…なに、俺が悪いわけ?」
「別にそういうこと言ってるんじゃなくてさ」
「じゃあ何」
「だから何がどうこうってわけじゃなく…」
「なら俺にどうして欲しいんだよ」
「…っあーーー!!もー無し!この話無し!」
胸の前で大きな罰点印を作り大袈裟に何度も首を横に振る。
どっちつかずな八左ヱ門の態度と不透明な真意に、兵助は憤りを隠せなくなっていた。
「はぁ?お前から吹っかけてきたんじゃん」
「だから俺から終わんの!終わり良ければすべて良しだろ」
「まったくもって良くないだろ」
「だぁあああ!いいからもう忘れてくれ!さー寝るぞ!」
そう言って掻き消すように立ち上がる八左ヱ門の裾を、兵助は咄嗟にぎゅっと掴んでいた。
顔は伏せられ、その表情は伺うことができない。
なにが「忘れてくれ」だ。そんなこと言うなら、あの日の言葉も忘れさせてくれよ。
兵助の頭を巡るのは、ひと月ほど前に突如訪れた変化。
八左ヱ門に思いを打ち明けられた、あの休日の帰り道。
『兵助っ、その…好きだ!!』
『…あ?』
初めは実感などまったく湧かなかった。
あまりに唐突すぎて無粋にも聞き返してしまうほどだった。(八はその時少し肩を落としていたようにも見えた。)
しかし、その告白の意味には次第に気付いていくことになる。
たわいない会話や雑談の際、ふとした時に気付く、熱の込められた眼差し。思わず目を逸らしてしまうような、穏やかなのに鋭い瞳。
そう言えば、こんな八左ヱ門の顔は他では見たことがない。ある時そう思った。
同級生や委員会の下級生と話すときのあいつは、燦々と照る太陽のような笑顔で、ものすごくお喋りだ。もちろんそれは俺にも向けられるもので、お喋りな部分も変わらないのだが、あの熱っぽい空気を宿した瞳だけは、俺以外の奴に向けられている所を見たことがない。
ただの自惚れかもしれない。そんなことは重々承知している。
しかし、その眼差しを受ける度、推察だったものはだんだんと確信へと変わっていった。
そう思わざるを得なかった。
自分は、本当にこいつの特別な存在なのだ、と。
「…兵助?」
それなのに、八左ヱ門は自分のことを信用していないのだろうか?
あの日の言葉を信じた俺は、こいつに惹かれていた俺は、一体何だったんだろうか?
怒りが、不安と愁嘆へ変わる。
「そんな…そんな勘違いされる身にもなってみろよ…!」
「え…?」
いつの間にか形勢は逆転していた。
息を殺すように嘆く兵助に、八左ヱ門はただ動揺することしかできない。
掴まれた裾はさらに皺を刻み、その心状をありのままに示している。
「お前、あんな…人のこと好きとか言っといて…簡単に俺のこと疑うのかよ!」
「……!」
八左ヱ門は息を呑んだ。
刹那、はっと我に返り、それまで頭を支配していた浅ましい感情を思い返す。
俺は、なんてことを見落としていたのだろう。
気持ちを押し付けるだけ押し付けて、問いただして、それで満足しようとした。
だが、当の兵助の気持ちはどうなる?勝手に苛つかれ、勝手に疑われ。
すべては俺の独り善がりなわがままだったのだ。
なぜもっと早く気付かなかったのだろう。
顔を伏せ項垂れる兵助を見下ろす。裾を掴む手にはまだ力が入ったままだ。
それを目にし、気付けば俺は衝動的に腕を伸ばしていた。
「っ…!?は、八…?」
片膝を立てて屈み、兵助の頭を包み込む。そこへ自らの頬を寄せ、目蓋を閉じる。
兵助の前髪がちょうど鎖骨に触れて擽ったかったが、そんなものは気にしない。
もう一つ分かったこと。
それは、いつも素っ気ない態度だった兵助が、自分の想いを確かに受け止めてくれていたということ。
その事実が途方もなく嬉しくて、不謹慎にも俺は口元が緩むのを抑えられなかった。
「悪かった…兵助の言う通りだ…お前を疑うなんて、どうかしてた…。ごめん…」
俺のつまらない嫉妬心が、少しでも兵助を傷付けた。
そんなことしといてお前のことをまだ好きでいる資格なんて、俺にはもう無いかもしれない。
でも、それでも、想う気持ちは簡単には消えないから。
「…ほんとだよ」
ぽつり、兵助は呟く。
責めるような口調とは裏腹に、気付けば縋りつくように身を預け、そのまま顔を埋めていた。
布一枚でしか隔てられていないせいか、八左ヱ門のとくんとくんという鼓動だけが兵助の耳を満たす。その温もりにすべてが浄化されてしまいそうだった。
「…でも、分かってても、やっぱ嫉妬はしちまうかも…、その…好きだからさ、お前のこと。誰にも取られたくねぇんだ」
余裕のないその声は、兵助の心臓を跳ね上がらせるには十分すぎるものだった。
なぜこの男はこうも恥ずかしいことを簡単に口にできるのか。
兵助の頬と耳はみるみるうちに赤く染め上げられていく。
「…うん、俺もその…気をつけるから…」
そう呟くと、一層強く抱き締めてくれる腕がたまらなく愛おしくて。自らも胸板へさらに額を押しつけた。
しかし暫くすると、なんとも言えない空気が流れ、ともに沈黙する。
二つの鼓動が折り重なるように音を奏でる。その調子は心なしか速い。
兵助は体を離そうとする八左ヱ門にギクリと何かを感じ取り、遮るように話を切り出した。
「そっ、そういやさ、お前俺のこと…好きとは言ったけどさ、付き合えみたいなことは言ってない、よな?」
「え…?」
唐突な問いに懸命に考えを巡らせているのか、八左ヱ門の動きは止まる。
その隙を窺い、兵助は腕の中からすり抜けると、何事もなかったかのように再び口を開いた。
「あの休みの日以来、特に喋ってないじゃん…そういうこと」
「……あああーっ!!!ほんとだ!!俺、好きとしか言ってない…!!…えっ、てことは、下手すると俺ずっと独り相撲取ってた…みたいな…?え…?」
その取り乱し具合に思わず吹き出す。
先ほどの身の危険を感じるような空気はすっかり消え去り、兵助の顔には笑みが零れる。
「そんなんじゃ『取られたくない』とか言える立場じゃないなぁ?」
口元を歪めて詰るように視線を向けると、八左ヱ門はもごもごと言い訳のようなものを漏らす。その様子がおもしろくて兵助はさらに笑みを深める。
考えてみれば、嫉妬をされるなんて恋人としては嬉しいことなのかもしれない。
余裕ができた途端そんなことを思ってしまった自分を、どうしようもないな、と笑った。
こんな距離が自分達にはちょうどいいのかもしれない。
そうしみじみ感じた兵助に、八左ヱ門が再び抱きつくのはこの数秒後のこと。
落ちない^p^
いつも竹くくに夢を見ています
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