夕刻。太陽は一日の仕事を終えようとしていた。
仄暗い火薬庫は、ただでさえ閉塞した気持ちを更に増幅させる。
しかし何故だか居心地は悪くなかった。外界から離れた場所に居るのだと、逆に安堵していた。火薬の香りに満たされた空間。それだけが支配する世界…。
浮遊感を纏っていた頭は、ギギッという、無遠慮にもどこか品良く開けられた戸の音と広がる橙色によって現へと呼び戻された。不意の眩しさに顔を歪めると、その先には端正な出で立ちで長い髪を結い上げた深緑色の装束姿。
「ああ、すまない。仕事中だったか」
「立花先輩」
少しだが、顔や服に泥を付けている。
そこでふと思い出す。昼時に食堂で、正午に六年生が合戦場付近での実践演習に出掛けたらしいという話を耳にした。その帰りなのだろうか。
「少し見ていってもいいか?」
「え?はぁ…構いませんが」
返すと、次々に火薬の壺を開け、匂いを嗅ぎ、何かを調べ始める。
俺はその光景をずっと眺めていたが、先輩は気にも留めず、すっかり自分の世界に入り込んでいる。
長くかかりそうだなと思い、観察は中断。背を向け、左手で抱えていた点検表に目を戻した。
しばらく沈黙が続いたが、ふと左耳を掠める微かな声。
「そうか…あれとこれを混ぜれば…」
「なるほどな…」
「こんな方法もあったとは…」
なにせ狭い倉庫だ。独り言はもうその意味を成さない。俺の存在は完全に遮断されているなと、少し参って点検表に苦笑いを向けていると、足元に伸びていた陽光に第二の訪問者が影を作った。
「やはりここだったか」
「文次郎、」
「(潮江先輩か…)」
とりあえず会釈をすると、それに気付いたのか潮江先輩は適当な返事をし、倉庫内には入らず入り口でそのまま会話を続けた。
「あの焙烙火矢が気になったのか」
「うむ。あの匂い…新種の火薬かとも思ったが、調合でどうにかなりそうだ」
なにやら脈略の掴めない会話を繰り広げている。それから暫くその火薬の調合とやらについて議論していたが、折り合いがついたのか、立花先輩は壺の蓋を戻し、一つ息を吐く。それから思い出したようにこちらを向くと、俺のほうをじっと見つめた。しかしこちらからは逆光で、俺は細めた視界の中に先輩を捉えた。
「五年も近々大規模な演習があるのだろう?…いや、演習ではないか。あれはもはや戦と呼ぶに相応しかったな」
「…、明後日にあります」
「そうか、懐かしいな。…まぁ、頑張れよ」
いつもの余裕ある笑みを横顔に見て、軽く頭を下げる。それを確認すると先輩は向きを変え、入り口にいた潮江先輩とともに、戸口の枠から颯爽と姿を消した。
再び沈黙が降り注ぐ。夕陽はもうじき辺りを照らす力を失おうとしていた。
…先輩に声を掛けてもらったことは、素直に嬉しい反面、複雑なものだった。
彼らの残していった血の匂いが鼻について仕方なかったのだ。
遅めの風呂から上がり、髪を拭きながらいつものように廊下を踏みしめていく。
頭は昨日からずっとあの夕刻の火薬庫に残されたままだ。
『まぁ、頑張れよ』
先輩たちを見ているとよく思う。強いな、と。
五年に進級し、以前より本格的な忍務を任されることが多くなった。それまでにはなかった、人を殺めてしまっても「仕方ない」の一言で片づけられてしまう忍務や、まさにそれを前提とした忍務など…。
先輩たちはそれを乗り越え、今、当たり前のように日々を笑って過ごしている。きっと様々なものを受け入れては、捨ててきたのだろう。
俺は…、先日の忍務で初めて人を殺めた。そのような事態は頭のどこかで想定していた。今思えば、後始末を怠らないようにという目的だったのだろう、後ろから先生につけられていたのは分かっていたし、いつにも増して陣形や段取りの確認をさせられた。
おそらく、あの忍務は俺にとって一つの"関門"だった。
数日過ぎた今でも、頭は同じ思考を繰り返し、だからと言って結論が出せたわけでもない。
あの日の火薬庫でも同じだった。少しでも閉鎖された空間に身を置きたかった。もう何も頭に入れたくなかった。だがそんなことは忍びの道に生きる自分に赦されることではない。覚悟はしていたつもりだったが、それはただの立前でしかなかったらしい。
果たして自分は、先輩たちと同じように一年後、笑って過ごせているのだろうか。
「おー兵助、どうした?」
唐突な声に思わず肩が跳ねる。視線を上げた先にはよく見慣れた姿があった。
自分と同じく寝間着に身を包んだ、ぼさぼさ頭。
「八?」
なぜ八がここに居る?と疑問符を浮かべたのは一瞬だった。俺はい組の長屋にたどり着く手前で廊下に座り込んでいたのだ。なんと呆けていたのだろう。
頭で勝手に思考を繰り広げていると、気付いたときには「よっ、と」という声とともに八が隣に座り込んでいた。浮上しきらないままの顔を突然覗き込まれたので、反射的に少し背けると、何を言うわけでもなく、八はそのまま再び前へ向き直った。
双方とも顔もまともに見ないまま隣り合って座っている。なんと滑稽なことか。
その微妙な空気を破ったのは八だった。
「ったく、今日の夕飯に豆腐が無かったからってそんなに落ち込むなよなー」
「はあっ? そんなことで落ち込むかよ!」
突っ込みを入れた勢いで八の方に顔を向けてしまうと、そこにはいつもの、向日葵のような笑顔があった。「冗談、冗談」と笑いながら後ろに手をつく。それを横目に睨みつつ大袈裟にため息を吐いた。
「お前、なんか三郎みたいになってきたな」
「ぶっ! そんなのこっちから願い下げだっつの」
だよな、と返したとき、気付いた。俺は久々に口を開けて笑っている。
八はわざと冗談を言ってくれていたのだ。
俺を包んでいた煤のような空気は、少しずつだが確実に晴れていく。
どうしようもない闇を掻き消してくれる存在がこんな近くにいることをなぜ忘れていたのだろう。やはりまだまだ自分は未熟だと、笑った。
立ち向かわなければ、何も始まらない。
上げた視線の先には、月が仄かに滲む紺碧の虚空。これが明けてしまえば、否応無しに訪れる無情の刻。
「頑張ろうな、明日」
「ああ」
どちらからともなく拳を突き出し、闇に浮かぶそれを鈍い音とともにかち合わせた。
(迷う暇はない それでも、惑う隙を探してる)
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