深く息を吸う。
川縁の空気は川の水と混ざり合って、どこかすがすがしい気分になる。
町での買い物の帰り道、俺たちはその土手に腰掛け、言葉の通り道草をくっていた。…というより、俺が珍しい蝶を見かけてしまい一方的立ち寄ってしまったと言うほうが近い。
「すごいな、この辺じゃ見たことなかったのに」
「そんなに珍しいのか?」
「ああ。ヒロオビミドリシジミって言ってな、この畿内から西の国にしか生息してないらしいんだ」
「へーえ。こないだ言ってたオオミドリシジミと名前が似てるんだな」
「っああ、あれと祖先が一緒だって言われてんだ」
一度話しただけの蝶の名前を兵助は覚えている。
単に「頭脳明晰」ゆえのものかもしれないが、自分の持つ知識を兵助も共有しているということに無性に嬉しさを感じていた。
心地のいい沈黙が暫し流れた後、ふと、兵助が手元に生えていた花に手を伸ばす。
「ああ、その花はそろそろ寿命だな」
砂利の間に根を張った植物。花びらは茶色に変色し水分を失くし始め、それを支える茎や葉にも同じ変化が起きていた。生き付く場所を間違ってしまったのだろう。
兵助は大きな瞳で俺の言葉に耳を寄せていたが、不意にそれを件の花へ向けると、じっと見つめ、何を思ったのか花びらを全てむしり取り、振りかぶって水流へ投げ入れてしまった。
「おまっ、何してんだ!そいつまだ生きてんだぞ!」
続いて引っこ抜かれた茎の部分もその流れに浮かべられる。
俺の抗議も虚しくそいつらは水面に揺られ、やがて姿を見えなくした。
半ば信じられない行動に呆然としていたが、兵助は変わらない真っ直ぐな眼差しをこちらに向けてくる。
「…ほっとけばよかったのか?もう死にそうなのに?」
「お前なに……!」
その先の言葉に思わず詰まる。
兵助が、花の欠片たちが見えなくなった先を、この上ないほどに優しく、穏やかな瞳で見つめていたからだ。
『ほっとけばよかったのか?』
兵助の言葉がもう一度頭をこだまする。
俺が暫く何も言えないでいると、その沈黙を待っていたかのように尋ねた本人は再び口を開いた。
「俺なら、誰かにむしり取られてでもいいから、さっさと逝きたい」
その言葉に、不意に俺の脳裏には先日の見たばかりの光景が広がる。
兵助もきっとそのことを言っているのだと、根拠のない確信が後押しした。
五年に進級して初めて体験した、戦場での演習。
砂埃で霞む視界、鬨の声、刃の交わる音。
先生達のいつになく厳しい声色に、この演習はこれまでのようなただの「練習」ではないのだと無理やり理解させられる。当然のように血が流れ、人間がただの物のようにバタバタと倒れ込んでいく。その場に味方は居ないのではないかと思ってしまうくらい、思考がただただ深い所へ沈んでいく。
死の臭いしかしないそこでは、正気を保つことだけで精一杯だった。
気狂いしながら生き延びるくらいならば、いっそ―。
「一人きりで散っていくよりいいと思わないか?」
こちらを向いて、兵助は静かに言い放つ。
先ほどの優しいものとは違う何ともいえないその表情に少しの間呼吸をするのさえ忘れていたが、一方でその瞳が俺の瞳の中を捉えていないことにも気づいていた。
俺は長い間勘違いしていたのだと、気づくようになったのはきわめて最近のことだ。
隣の組の優等生と仲良くなって、最初は何でもそつなくこなすこいつに対抗心を燃やしたりもしたが、「優等生」としてでなく「兵助」として接するようになれば、そんなものはどうでもよくなっていた。
尊敬する友の一人から、その念が恋慕へと変わっても、俺の中の兵助という存在は変わらずに、凛とそこに立っていたのだ。
そんなふうに、勝手に絶対的な位置につけて、勝手に安心していたようだ。
兵助だって俺と同じ歳の忍を志す者で、同じような光景を見てきたというのに。
同じように揺らぐことだって当たり前だというのに。
「……もし、そういうことになったらさ、」
「ん、」
「そんときは、兵助の望む通りにしてやるから」
夕陽になりつつある光が水面を照らす様を、ただ見つめた。
視界の端で兵助がこちらを向き続けているのに気づきながら、振り向くことはしない。
だから、その表情がどう変わったのかは分からない。
暫くしてその顔は正面を向き、息だけで笑う声が微かに届いた。
「…さすが、生物委員」
二つ並ぶ背中の後ろで、件の蝶はひらひらと行きつく花を探していた。
(花いかだ)
無意識に→←な竹くくが好きです
竹谷は感情的だけど生物委員として相手の死の意志は尊重すべきと思ってる
|